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 干支(十二支)に思うシリーズ
        
「澄んだ目」
 
(平成9年)
 丑年にあたって、牛にかかわることを書いてみます。 私の子供のころ、私の生まれ故郷の東頚地方ではどこの家でも牛を飼っていました。子牛をとるため、みんなメス牛でした。春先、子牛が産まれる際は、高く売れるメスの牛が生まれるように願ったものでした。

 「目」 その牛の一番の思い出は、きれいに澄んだ大きな目です。よく漫画やアニメに描かれているような怒りや憎しみに満ちた目は見たことがありません。いつも温和な優しい目をしていました。そのころ、村に、力のある朝鮮牛という大きな赤毛の牛が連れてこられ、山の木を引きずって運ぶ仕事をさせられていました。人相の悪い怖そうな男が、太い棍棒でその赤い牛をたたき、どなりつけていました。そのとき大粒の涙がその牛の眼から落ちたそんな気がします。牛は泣かないものでしょうか。教えてください。

「労働」 牛は、あらゆる農作業に関わっていました。春には、「しろかき」という仕事がありました。泥田をかき回す仕事です。牛はマングワという9本ほどの爪のついた熊手のようなものを引きずって泥田を耕すのです。私は牛の鼻先に結わえられた棒を持ってたんぼの中を誘導するハナットリという仕事をさせられました。こんな泥田の中を歩き回るだけでも難儀なのに、この牛は頑張るなあと感心したものです。
 
 「牛」 象形文字。牛の角と頭を後ろから見た形。「牛耳る、牛耳を執る」という言葉は、昔、中国で諸候が集まって同盟を結ぶとき、いけにえの牛の耳を裂いてその血をすすったが、耳を裂くとき、かしらになる人がその耳を持っていたことからできたものだそうです。「牛歩」は牛のように歩みが遅いことを言います。 

 「丑」 象形文字。指先を曲げて、物を握りしめる形。・十二支の二番目。・方位では北北東。・時刻では午前二時。・「草木も眠る丑三つ時」は午前二時頃のこと。丑と牛とは語源がまったく違う文字です。

  「姿」  ゆったり堂々とした姿です。馬が寝そっべている姿はまず見かけないが、牛が寝そっべている姿はみかけます。寝そべって、食べたものをもう一度はんすうしている姿を思い浮かべてください。桃の木の下なんかでくつろいでいる姿は平和な感じがします。その形が山の形に似ていて「臥牛山」と名付けられたものが各地にみられます。頂上付近がなだらかでこれも平和な感じがします。

 「神様」  インドでは神の使いとして今も尊ばれています。日本でも、尊ばれた名残に、「牛に引かれて善光寺参り」とい言葉があります。むかし、不信強欲な老婆が、自分の布を牛の角に引っかけられ、その牛を追ってついて行ったら善光寺に案内されたという話からできた言葉です。他のことに導かれて偶然善いことに向かうことを言います。 

 人間のために働き、牛乳を提供し、あげくは、牛肉となって私たちに食べられるお牛様。本来の寿命は何年くらいなものでしょうか。牛のありがたさに感謝しながら話を終わります。合掌。


 


 「さっそうと生きよう 虎のように」
(平成10年) 
 
寅年にあたって、寅にかかわることを書いてみます。まず、トラで私が連想するものは、
 ・太平洋戦争の開戦の暗号 トラ トラ トラ
 ・猫の名前 トラ
 ・加藤清正のトラ退治
 ・人の名前 私の祖父の名前は「虎蔵」、渥美清の「トラさん」  

 虎にまつわる諺はたくさん有りそうなので、広辞苑で調べてみると、百獣の王らしく、諺がたくさん載っていました。・虎穴に入らずんば虎児を得ず=危険を冒さなければそれなりの成果は得られないこと。・虎に翼=威をふるう者に更に勢いをそえることのたとえ。・虎の威を借る狐=他の権勢をかさに着ていばる小人のたとえ。・虎の尾を踏む=きわめて危険なことをするたとえ。・虎は死して皮を留める、人は死して名を残す=死後に名誉功績を残すこと。・虎を画きて狗に類す=高遠を求めて不成功に終わることのたとえ。また、豪傑を気取ってかえって軽薄になることのたとえ。・虎を野に放つ=権威ある者を自由にその威をふるう状態におくことのたとえ。
  慣用句としては、・虎の口  ・虎の子 ・虎の子渡し ・虎の巻・虎鋏・虎髭 ・虎目石 などがあります。  
 
 虎も猫科の動物だと思うので、猫には虎に似た一面がたくさんあります。猫の強さそのものは、虎におよびもつかないが、その性格や身のこなしは虎そっくりです。たとえば、写真の虎の目をじっと見つめているとぞっとするほどの怖さを感じますが、その目や顔は猫そっくりです。我が家の猫は、ヒマラヤンという種類。私が横になって、寝てるときに、私の目の高さより高い位置から近寄ってきて、見おろすようにして、ニヤアと鳴くときはひやっとします。猫のあの歩き方はどうだろう。肩で風を切って歩く姿は私なんぞ、少しは猫様を見習うべきかなと思います。夜行性なところ。動くモノへのすばやい反応。虎そっくりです。虎も猫のような爪を持っているのでしょうか。わが家の猫はその鋭さが災いしています。こたつ布団に爪をひっかけてもがいている姿を見かけます。虎も原野で案外こんな失敗を起こしているかも知れません。頭の上を掻いてやると虎もゴロゴロと喉を鳴らして喜ぶものなのだろうかなどと考えたりしています。寅年の三月に卒業する三年生の皆さん。虎のように威風堂々、さっそうと自分の道を歩んでください。  


   

 
 「薪一本で兎狩り」 (平成11年)
 卯(ウサギ)年にあたって、ウサギにかかわることを書いてみます。ウサギを捕(ト)るには、薪(マキ)が一本あればいい。どうするのかというと、雪が降った朝、新しいウサギの足跡をたどっていく、そして、マブという雪庇(セッピ)の下に足跡が入っているのを見つける。そうしたら、その場所にその持ってきた薪を投げつける。すると、ウサギは、鷹(タカ)や鷲(ワシ)が来たものと思い込んで、奥の方に逃げ込んでじっとしてしまう。そこで、ゆっくり歩いていって、手掴(ツカ)みする」と言うお話です。信じますか。 実は、これはうちの父の話です。「ふるさと」という文部省唱歌に出てくる「うさぎ追いしかの山」というのは、こんな情景を指すのかと思いながら私は歌ってきました。

 夏の、ウサギの捕り方は、細い針金で輪を作って、ウサギの出るところ、人一人歩くのが精一杯という細い道などに仕掛けておく方法です。これは、新卒で山の学校に赴任した際に本物を見ました。。
 
 次に、ウサギにまつわる語句を広辞苑から拾ってみます。ウサギのイメージを広げ、知識も広げてください。○兎 (ウサギ)・・・耳長く、前足短く後ろ足は長い。上唇は欠けて、長いひげがある。挙動は、敏捷(ビンショウ)・活発で、繁殖力は頗(スコブ)る大。肉は美味で、毛は筆に作る。 △「脱兎 (ダット)のごとく」とは、逃げ足の早いこと。 △「ウサギの糞 (クソ)」とは、物事がすぐ切れて続かないこと。 △「ウサギの登坂」とは、ウサギが巧みに坂を登ることから、もっとも得意とする場所で力を振るうことのたとえ。 △「ウサギ笛」とは、兎狩のとき、兎をおびきよせるために吹く笛。 △「兎耳」とは、よく人の隠し事聞き出すこと。また、その人。
 
私の育った家は農家ですが、祖父の時代には猟師もやっていて、毛皮の売買もしていました。ある日、隣村でさっきのようにして捕れた野ウサギをまとめて買い取って、首を刺して、殺したところ、その日から、自分の首の同じあたりに腫 (ハ)れ物ができて治らず、死ぬ思いをしたそうです。そのことがあってから毛皮の売買はやめたということです。祖先の代には、生活の糧でもあったウサギ様の御恩に、御礼と感謝の気持ちを込めて紹介しました。最後に一問。山で、ウサギの足跡を見つけました。ウサギどっちに行ったでしょう?  
                    





  
「龍の気」
(平成12年)  与えられた文字数が この年より減。

 
今年は、タツ年。龍は十二支の中で唯一この世に実在しない動物ながら、よく知られています。大きな体に口に角、恐ろしい力。こんなものを考えた人間の想像力の素晴らしさに感じ入ってしまいます。 
 ところで、龍にまつわる言葉には、「登竜門、画龍点睛、龍頭蛇尾」などがあります。また、『龍は一寸にして昇天の気あり』というのもあります。「すぐれているものは、小さなときから普通のものとは違ったところがある」という意味です。 生まれつきでないまでも、「気」、つまり気持ちや希望は大事にしたいものです。特に、若い皆さんには、大きな気をもって歩んでほしい。その気が周りを圧倒するような気をもって。

私も大昔の人に負けないで,自分なりの想像力を駆使してみます。【龍は、実は「水の精」なのであるだから、あのように水中に住み、水蒸気とともに、時には空に舞い、雨となって地上に降り、どのようにも形を変えられる。嫌なことは水に流し、誰ともこびたりすることなく】と



 
  「一皮剥けよう、蛇年」(平成13年)      

 旧約聖書では、蛇アダはムとイブをだまして禁断の木の実を食べさせた科を負って、地面を這うことになったと言われています。そんな古今東西疎まれる話の多い蛇のことを考えてみました。
 蛇年なので、少し贔屓目に見ても、あの面がまえは好きにはなれません。アフリカには、神が人間に不死の恵みを授けようと、毎年脱皮して若返るように命じたものを、蛇が横取りしたという話もあります。人食い大蛇、中国のやくざ集団「蛇頭」。どう調べてみても、よい話しはあまりない蛇ですが、それでも日本ではこんなのもあります。蛇がとぐろを捲いているのを見るのは吉兆、家や屋敷に蛇がいると金持ちになるなどです。
 さて、蛇蝎(蠍=さそり)のごとく嫌うという言いまわしがあるほどに、嫌われものの蛇の話でしたが、その蛇にならって、毎年脱皮して新しい気持ちをもちましょう。これは蛇足だったでしょうか。
           


  
 「馬に乗ってみたい」
(平成14年) 
  馬で思い出すことは、小学生のころ、山の学校の通学路を町の役場に通う隣村の人が、馬に乗って駆けてくる姿です。ひずめの音が聞こえてくると、馬にはねられないようにと、道の端によけてちぢこまっていたものです。怖かったという思い出とともに、かっこうよかったなぁという、あの乗馬姿にあこがれる気持ちがあります。駒音高くとか、馬を駆るという言葉なんかにしびれます。人生そのものも、威風堂々と歩みたいものですね。
 「馬車馬の如く」「馬の耳に念仏」「馬耳東風」など悪い意味合いに遣うことが多いのですが、「馬と猿」は仲のよいことのたとえ。「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」は人柄のよしあしもいっしょに暮らしてみなくてはわからない、
という意味だそうです。最後に今年一年、うまい話には気をつけましょう。そして、ウマのあう友と良き人生を願います。
12子の半分まできました。午は「正午、子午線」の午であること知っていましたか?


  
 
 「羊と美・養・翔・善」
(平成15年)


 羊でで思い出すのは「羊頭狗肉」「羊が一匹、羊が二匹・・・」「ひつじぐも」でしょうか。
 「羊頭狗肉」は、羊の頭を看板に出して、実は犬の肉を売ることからきた故事成語で、名と実が一致しないことを言います。このことから推測できるのは、昔は犬の肉を食用にしていたということ、そして、羊の肉は美味だとされていたことです。人類の先祖は羊の肉を食用に毛や皮は衣類として利用させていただいててきたというわけです。しかし、羊もまた人間様に家畜とされたおかげで弱い生き物ながら、これまで長く生き延び種を増やしてきたとも言えます。

さて、羊という文字が象形文字であることはよく知られていることですが、「羊」を部首にした漢字を上げてみます。「美・養・翔・善・着・義・羨」良い感じのものが多いです。この漢字のような良い年にしたものです。

 
追加
 ところで、これまでのように私の子どもの頃を振り返ってみると、羊はメンヨウ(綿羊)と呼ばれていました。しかし、そうたくさんは飼われていず、私の田舎では代わって山羊を飼っていました。
 山羊は子どもでもあやすことができ、山間地の斜面などでも、山羊の首を縄で結わえ、その先を切り株などに結わえ付けておくだけで勝手に草を食、成長してくれたものです。そして、小山羊を生んだ後はお乳を私どもに恵んでくれたというわけです。四足を小さな杭に縛ったあと、お乳をつかみ、右手と左手を交互に握って搾ると、シュウシュウと音がして地面い置いた容器の中にたまったものです。そして、牛乳代わりに飲んだものです。するとウンコが山羊のウンコのようにコロンコロンとしたもになってでたりしてきました。
 山羊もも飼育しやすいことが幸いして人間に飼われ、種を増やしてきたものと想像します。しかし、最近は、とんと姿が見られなくなったのが寂しい。頭数? 十年程前に山形県境の小国町のの飯豊山荘に行ったときに、実物に有ったのが最後かな、三匹の小山羊でたいそう可愛かったのが忘れられません。
 

     「人間に似すぎる猿」(平成16年)      
 
  猿の慣用句には「猿知恵、猿まね」 など猿を卑下したものが多い。ちょっと難しいものに「猿がしこい、猿芝居」などがありますが同じ類になります。
 この人間に次いで優秀な頭脳をもつ猿がなぜか見下されています。人間のライバル心からでしょうか。日本猿などは、あまりに人間に似ていて、ペットとして飼うにしても、人間の方が気味悪がってあまり飼われないできたのではないでしょうか。いや、そんな人間に似すぎているそのサルを、ブッシュ生活者たる猿類を、昨日テレビで見たインドシナ半島の住民は、食用にしていました。少し感傷的過ぎる考えかも知れませんが・・・。
 さて、その猿ですが、福島市近郊で見た猿がなぜか忘れがたいのです。神社の周りで秋の日差しを浴びながらのんびりと過ごしていた猿で、せわしなく働く私の方がおろかな感じを抱かさせられた。幸せとはこんな風に生きることだよと教わった気がしました。
                          
  
     

 「何でもほじくりかえして・・・」 (平成17年)   

 
  酉年の鳥は鶏のことをいうのであろう。その鶏の感心なところは、庭を熊手のような足で引っかいてその下のの生き物を獲る姿である。人もあまりお高くとまっていないで、貪欲にそこいらを歩き回ってを求める強さをまねたいものである。
 もうひとつは、早寝早起きの習慣である。「早起きは三文の得」のことわざを知りながらも、つい宵っ張りの生活をしてしまうことが多い。その日1日は長くなっても、翌日が遅く始まっては何の得もない。夜遅くでないとできない仕事ででもあればともかく、そうでない限りは、自然の動きに逆らわず、明るくなったら起き、暗くなったら寝たいものである。小鳥のさえずりに目を覚まされたら、小鳥さんに催促されたと考えよう。
 生き物の鳥とはかかわりのないことだが、酉の刻というのも良い。夕方5時から7時ころのことである。無事であった1日をかえりみながら感謝の思いで過ごす時間帯である。



  「信頼の絆で結ばれる」 (平成18年)

      
 
 犬のことはあまり知らないのであるが、犬と言われて思い出すのは、アルバイトで、新聞配達をしていたときの犬である。うるさくほえる犬は小型犬で弱いやつと相場が決まっている。しかし、弱そうだからとあなどるとひどい目に遭う。後ろを見せた瞬間、ふくらはぎをガブッとかんでくるのである。個人的には良い印象がない。犬侍 犬死に 警察の犬、 犬の遠吠えなど悪い使い方もある。
 しかし、「犬は3日飼えば3年恩を忘れず」とか。義理堅い生き物である。私ども人間以上に、人間との関係作りを大切にしている、あるいは人間関係作りが上手な動物である。他に盲導犬、セラピー犬とか感心するばかりだ。人間同士の信頼関係の薄れが指摘される昨今、お犬様を見習わなければと思う新年である。単純に悪い人間に利用されることはあっても、人を信じるという面では・・・。




   猪について考えること平成19年) 
    
 猪は関東以南の暖かい地域の動物であって、新潟県の私たちには、なじみの薄い動物です。東京の奥多摩地方の畑には、この猪の防御柵がたくさんあります。私は、自然界の猪様には未だ一度もお会いしたことがないのですが、おのずとその被害の大きさが想像されます。私たちの住むこの新潟県は雪で作物は育てられませんが、育てた作物を、冬眠しない猪に横取りされる心配も無いということです。
 さて、この猪にちなんだ「猪突猛進」という言葉は、向う見ずにがむしゃらに突進する様子を言います。若い十代の末ころ、私の高校生の頃の生き方を語っているように思われます。懐かしいあの十代、長い人生には、こういう時期があってよいと思います。また、猪は、夜行性で雑食とか。夜行性のところは真似できないが、食べ物の好き嫌いのないのは似ています。辛いもの、甘いもの、海のもの山のもの、何でも食べる人間とどっちが上手かなと思います。





   ねずみにちなんだ問題はいかが?
平成20年) 
    

  私は、ネズミ年の生まれです。(60歳 退職年齢) どちらかというと、じっくり見たくない生き物ですが、実は一番身近にたくさん潜んでいるそうです。そして、このネズミにかかわる言葉やお話はたくさんあります。調べてみたら面白かったので、皆さんに紹介を兼ねて問題形式で出題してみます。答えは、編集者の好意で、98頁に載せられています。
 
  @鼠園とは何のこと? 
  A 英語のネズミをマウス(Mouse)とラット(Rat)どっちが大きい?
  B 海鼠」は何のこと
  C1ケ月に子を12匹産むネズミ。親も子も孫もひ孫も月々に12匹ずつ産むとき、12ヶ月でどれくらいになるか。
  Dドラエモンがねずみ嫌いなのはなぜ?。
  
Eドイツの民話、『ハーメルの笛吹き男』で、笛吹き男は笛の音によって、ネズミの群れをおびき寄せ、河で溺死させ退治した。報酬を出し渋る街の住民に怒った笛吹き男は、どうしたか? 

   
  答え

    @東京ディズニーランド  Aラット(どぶねずみ) B ナマコ   C276億8257万4402匹  Dネズミ型ロボットに自分の耳朶をかじられ失ったため   E笛の音によって子供たちをすべてさらってしまう。