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文部省派遣海外研修体験談(アメリカ編)
9/18 (月) 家〜成田 <凧のホネ>
朝、いつものように目覚めるが、いよいよ16日間に及ぶ海外旅行の始まりだと思うと、忘れ物の無いように冷静に行動しようと思う。普段よりゆっくり動いていると何かしら余裕も出て、自分では落ち着いて行動していると思っていたが、妻からは興奮しているからもっと落ち着くように言われる。忘れ物や失敗の無いようにと思う分、やはり緊張しているのだろうか。
公的旅行といえども半分以上は自己負担(夜と日曜の分?)である。まして大発表をさせられるわけではない、こんな気ままな旅はめったに無いと自分に言い聞かせてみる。
燕・三条駅に出発の40分も早く到着した。ゆっくりと余裕のある旅行のスタートだと思ったとたん、海外の訪問校へのお土産ある凧のホネを妻の車の中に忘れてきたのに気付き、急いで駐車場にもどった。間に合った。しかし、これから、はたしてこれを訪問学校まで持っていけるかと不安になる。
追加説明=白根市は凧で有名で、日本らしい武者絵も描かれているので、凧スケさんの凧を買って派遣団のお土産に準備しておきました。凧の部分とホネの部分に分離されているので、持ち易かったのだが、このホネがあとでちょっとトラブルを起こした。横二本(約70センチ)縦一本(約1メートル)のホネで一枚の凧ができる。この1メートルの凧のホネがカバンに納まらないので手に持ってを飛行機に乗りこもうとしたら、それは何か、危険物ではないかと注意を受けて説明を求めらた。
< トラベラーズチェック >
成田空港で、オプションツァーのことやパスポート、ドルへの換金、トラベラーズチェックの購入などの旅の準備をすませる。このトラベラーズチェックというのは便利でしかも自分が偉くなったようで気持ちがいいものだと感心した。言ってみれば、子供のままごとでお札を自分で発行したようなものであった。
追加説明=所定の証明書のような用紙にあらかじめ自分でサインしておく。そして、別の子供のおままごとのような用紙に同じ字でその紙に自分の名前をサインすれば、それで手製の銀行券の出来あがりとなるわけである。サインがなければ単なる紙くずということである。これは便利だ。たとえ、この地球上に「自分」と同姓同名の者がいたとしても、この癖字の下手な字で「小野島徹 」と書けるのは世界で 「俺一人」 だと思うと、この癖字の下手な字がいとおしくなった。印鑑など不要な外国社会への第一歩をふみいれた。
9 / 18 同じ日を迎える。ロスアンゼルス
ロスアンゼルスまでの飛行機の中、そしてロスアンゼルスの空港付近も日本人が多く、アメリカに着いたという実感はなかったが、飛行機を乗り換えて、シカゴ行きのこの飛行機の中は、周りのスチュアーデスも外人になり、やっと国外・アメリカにきた実感がわいてきた。
< ビール >
機内で、スチューワデスさんに「 ・ ・ ・ ・ ・ 」と、話し掛けられたが、なんとも理解できず、それでも何とか飲み物のことだと思ったので 「 ビアー 」 と言ってやった。 しかし、まだ何か聞いてくる。ビールは、せっかく外国へきたのだから外国産の奴にかぎると思って 「バドワイザー プリーズ」 と言ったがまだ納得しないようだ。
「 ・ ・ ・ ・ or ・ ・ ・ ・ ・ 」 と、聞いてくるから、「or」の前の方の奴を鸚鵡返しに答えた。それで、やっとビールを手にした。それをよく見ると「ライト」 と言うようなことが書かれている。どうやらこれはアルコール分の少ないビールのようである。物の本に飛行機の中は飲み物はただだと書かれていたので、欲をかいて、すぐに頼んだのだがここはエコノミークラスのせいかその場で2弗とられた。
ビールをビアーと発音することには、自信がついて、別の日に、オプションツアーで、ヨセミテ公園に行った帰りのバスの中、「休日だから」どこかに自動販売機の「ビアー」が無いかと或る外人さん頼んだら、親切に案内してくださる。喜んでついて行ったら、なんと「熊」の檻の前だった。
< 車 >
シカゴ空港からホテルへ向かう。バスの座席は日本よりやや高めで、私の脚が短いせいもあって、かかとが床につかずに不安定である。特に、トイレの便器も高くて使いにくいそうだった。それになんとトイレのついたてが低くてそのまま用をたしている姿が見えるところがあった。その場面を一人で想像してニヤッとする。
バスに乗った。道路はオンボロ車がよく走っている。車検制度が無いのと猛烈な冬の寒波で、この国では車というのは走って止まればいい、ボディの傷みなど気にしていないといった感じである。バンバーなどは、他の車の停車している間に割りこむためにあるので多少のへこみなどは頓着していないという話も聞いた。板金塗装業も要らないようである。
また、この国では運転免許は筆記試験だけで実地試験は無いという。したがって、自動車教習所は無い、車の実地練習はもっぱら父親の大事な役目だと言う。たまにきれいな車に遇うと、それはたいがい日本車である。それに、道路脇の看板広告が無いのも、この車先進国アメリカの特徴(長所)であろう。安全のため日本も見習いたいことである。
ガイドの伊藤さんのお話ではここシカゴの消費税は8%。冬には気温零下40°にもなるという。だから、冬には体をすっぽりと覆い、眼だけ出して町を歩くという。そして春になると、ご婦人方は太り過ぎの体に気付き、必死でシェイプアップを始めるということである。
その夜は、シカゴ市一の歴史を誇るホテルパーマーホテルに泊まる。バイオリンの演奏がロビーで行われていた。良いものは良い美しい音色だということは俺にもわかった。しばらく聴き入っていたが、どう胸を張っても自分が、田舎からのおのぼりさんのようで、周りの紳士淑女の雰囲気に馴染めず落ち着かなかった。
9 / 19 (木) シカゴ〜マイアミ〜キーウェスト
< 空から >
区画整理された田園地帯の上を飛ぶ。この国は新しい国ということもあって、町も村も畑も碁盤の目のように区画化されている。小麦の畑やトウモロコシ畑や牧場がえんえんと広がっている。間違いなくここはアメリカの上空だと実感する。シカゴ市近郊は住宅が林の中に上手に木々を残して建てられている。水路や池、湖もたくさん見られた。豊かな国である。
その景色の中に時々1マイルほどの大きさの楕円形のトラックというか道路のようなものが見える。「何だろう。何に使うものだろう。」 と不思議に思って隣の外人さん(正確にはわたしが外人だが)に聞いてみた。すると、高速道路のインターチェンジだと説明してくれた。しかし、どうも勘違いしているようであった。それではなく、各農家の近くにある楕円形の道路は何のためなのか聞きたかったが、英語を話すのが億劫になり、“ I see.
“なんぞと言ってそれ以上追求しなかった。後日、カナダのレセプションの折に尋ねたら、馬を調教するのに使うトラックで、かなりの金持ちの家だけが持っているということであった。
とにかく英語は難しい。あのレセプションなるものも、日本語、英語交互でなく英語ばかりだから、2時間もするとぐったりしてしまった。
< 南の州、フロリダ >
山野草が好きな私には、植生の違いがなんとしてもうれしかった、。異国に来たと行く実感がするからである。日本で自生している草花はまったく見られず、日本の温室で大事に栽培している草花、ハイビスカス、ベンジャミン、ブーゲンベリア、ヤシなどがここではいたるところに自生している。つい4時間ほど前まではカナダにいたので気温の差も大きかった。
バスから降りて、マイアミビーチの端っこに行った。半ば期待もしていたことではあるが、セミヌードの女性にお会いしました。暑いから、こういう格好が自然で、明るく開放感があっていいものだとつくづく思った。真冬の1月ころを除いてほぼ1年中この気候だという。浜辺でいささかのカルチャーショックを受けてホテルに着いた。ホテルといってもアメリカ式のモーテルである。二階建てで四角に建てられ、敷地の真中はプールや庭になっていた。ここでも、今プールから上がってきたばかりの開放的な姿の女性にお会いした。自分の意志に反して、目がその方ばかりに向いてしまって、大変だった。
そんなこんなで、アメリカといってもここ、フロリダはシカゴとはずいぶん違う。車もシカゴよりきれいである。
豪壮な家屋敷が入り江に沿っていくつも建てられている。海が遠浅のため波打ち際まで家が建てられいても津波の心配はないようである。キーウェストの「KEY」は「要害の地」の意味があって、さしずめここはアメリカ・フロリダの「西の要害の地」とでもいう意味になるらしい。キューバや南アメリカからの移民が多いが、この国の祖先が同じように難民状態だったことから、拒むことはなく、困っているものは受け入れているそうである。
この土地で見る限り裕福さの度合いは日本よりずっとアメリカが高く思える。飛行機のある家、プールのある家など日本ではめったにない。海の水はきれいでよく澄んでいる。透明度が高くアクアラングの盛んな土地であった。わが新潟の鳥屋野湖畔やシーサイドラインも潜りができるほどきれいだったらなぁと思う。大昔は同じようにきれいだったはずであるが…・。
9 / 20 キーウエスト
いよいよ学校訪問、緊張感の中、黄色のスクールバスが予定時間きっかりに迎えに来た。大型のトラックのようなバスである。運転手はこれも大型の黒人女性。乗り心地もトラックなみ、すこぶる悪い、ズドンプップッと感じで走る。
訪問学校の子細については別紙・正式視察報告書にゆずり、ここでは感じた事を箇条書きにしておく。
〇 ジェラルド・アダムス小学校
・ 20分ずつの授業、オープンスクール。移動がスムーズ。
・ 海外からの移住者への受入態勢が整っていること。
〇 オーレス ・ブライアン中学校
・ 全教科そうであるが、音楽・体育が特に楽しそうであった。
・ 懲戒の方法…登校後謹慎する室あり、宿題を終えるまで教室に入れない。
〇 ポインシア小学校
・ 国語という教科はなかった。国語はたとえば、Reading Writing Composition Penmanship Listening Library などと学年により細かく分かれていること。詳しくはその中に、あるいはもう一度行かせていただいた時に学習したい。
小学3年生の “ I am glad I am me
. ” の詩の朗読の内容と授業の雰囲気。視察報告書に掲載。
〇 キーウェスト高校
・ 音楽の授業の教室を揺るがすような大きな声の合唱、さすがアメリカ、度肝を抜かされました。
< 教育長=ボス >
教育長はすごいと感心したのは小学校から高校までの先生方の名前から時には生徒の名前もよく知っていて声をかけていることである。日本の教育長は生徒とはかけ離れたところにいるが・・・・・。
また、教育長は保護者とも懇意である。これは翌日の夜のレセプションでわかったことだが、教育長が公選制で選ばれていることと大いに関係しているようだ。公選制であるから自分の担当の町の学校の事は、実によくを知っているのである。また、先生方に対しては責任ある立場からびしびし注文をつけ、保護者には学校の良さを大いに自信を持って話す。また、小学校の先生が中学校の先生に、中学校の先生が高校の先生に、そして高校の先生の中から校長が選ばれ、その後教育長になることが多いという。また、その教育長のことを職員はボスという呼び方をしていたようであるが、生徒を先生がたたくことがあるかとオ・ブライアンの社会科の先生(Mr.
Bill Butler )に聞いたら 「そんなことしたらすぐに僕等はこれだよ。」と手で首のところを切るまねをして見せた。
「ほんとに誰もたたかないのか。」 と重ねて聞いたら 「それが出来るのはボスだけだ。」話してくれた。ボスの力はここではまさに偉大なのである。下手な英語でここまで聞き出すのは大変な苦労でした。ぐったりしててしまい。もうこれで沢山。勘弁してクレーと叫びたい気分になった。申し訳ない,あとはあいそ笑いをしているだけのことが多かった。
夕方は市内のみなと付近を散策。その後、その偉大なる教育長さんの案内の店で皆で夕食をとった。ストーンクラブ、ロブスターなどを食べる予定であったが、料理がなかなかでてこなかった。こっちは夜だが、私の勤務校、味方中学校は今は午前10時ころ、勤務校の放送で私の生国際電話を流す約束だったので、早めに7時半ころに切り上げてかえっった。
ところで、かの偉大なボスはなんと飲んだ後、車を運転してお帰りになるという。この地では飲酒運転は許されているそうである。怖い国である。
土地が広いから車無しの生活は考えられないようである。
< 国際電話 >
ここは今午後8時半である。私の勤務校味方中学校はちょうど午前の10時半、2限の終了時間、そこに問題の答えを国際電話で全校生徒に放送を通して流すという趣向であった。
問題は10問で、例えば、
@ ここは、今何時か。
A ここは、今気温は何度か。
B ガソリンは1リットルいくらか。
C コーラはいくらか。
D この電話はいくらかかるか。 などというものである。
このうち@の答えにはチョット戸惑った。日本できちんと考え、経度などから調べてきた時間とここの現地時間が違うのである。どうしてこうなったのか分からず困ってしまった。
実は、あとでわかったことだが、・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 北アメリカ全体が10月16日ごろまでサマータイムだったのである。
Aの答えも大変だった。こっちの温度計は80度になっている。実は,分かっていたことだが・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・こちらは華氏だったのである。
Bも大変だった。安いだろうと思っていたのが、バスの中から見るガソリンスタンドの価格は日本と大して違わないナーゼカ?・ ・ ・ こちらは単位がガロンだった。
・・・・いろんなことがあり、忙しい一日だったが無事にこの日も終わった。その後団長の差し入れのオールドパーで大野先生の部屋で宴会となった。
9 / 21 キーウェスト
訪問学校と2校間違えて、昨日のところで書いてしまった。今日、ポインシアナ小学校キーウェスト高校を視察したのでした。だから、学校の話は省略します。
< ヤシの実 >
夕方からの行動を追ってみる。突き出た半島の南端でヤシの実が売られていたので早速買ってみた。わずか1ドルだった。買ったのはいいが、重くてつかみ所が無く持ち運びが大変である。両手で持たなければならない。日本の方にはなじみが無くて分かりにくいだろうが・・・・・私の経験の中に、似たものがあった。一升瓶をリュックも無く素手で持って奥三面の猿田ダムのあたりをもってあるいた記憶に似ている。でも、あの時はもっと楽しみがあった。このヤシの実以上に。
ここは夕日の沈むのと朝日の昇るのと両方眺められる土地らしい。そのシーサイドの今まさにサンセットの臨めるバーでビールを飲むことにした。ついでにこのヤシの実を開けてもらって飲んでしまおうと思ったわけである。ところが、開けてくれと頼んだが、道具がないから駄目だと断られた。次の店でも断られ、両手でヤシの実をしっかり持ってモーテルのホテルに帰った。
ここの調理場なら何とかしてくれるだろうと、のこのこ入っていって頼んでみた。チョット首をかしげるようにしていたが、そのうちに大きな鉈・ナタのような包丁を持ってきた。ああこれなら大丈夫だと思った。えい、やっ、とばかりに真二つに刃を入れた。ぐさっという音とともに刃が3〜4センチくいこんだ。しかし、切れないのである。せっかくここまで持ってきて味わえないとはとしょんぼりしてしまった。この土地にこんなにたくさんあるものが何で簡単に開けられないのだろう。不思議であった。あきらめて部屋に戻ったものの、どうしたもんだろう、日本の土産にするにはかさばるし、植疫検査とやらも面倒だし、トランクも一杯で余計なものの入り込む余地は無さそうだし・ ・ ・ ・ ・ ・ 。わずか140円くらいのものだ、捨てていこうかと思っていてら、さっきの調理場から若い青年がやってきて、自分が家に帰ってドリルで穴を開けてきてやるという。そんなことがあって、やっとヤシの実の汁を味わうことができた。ヤシの実には、汁のはいった部屋が3つあったように思う。そして、錐・キリのようなものであけた穴も各部屋ごとに3つあけてあった。そこにストローを差し込んで飲んだ。他の団員たちとも回しのみをした。よくは覚えていないがわずかに甘酸っぱく、石鹸水のようなとろっとした汁だった。
説明=味方村の議長さん(堤氏)の書物に、ガタルカナルで戦争中アメリカ軍が艦砲射撃をしてくると日本兵は逃げ出すどころか、みんなやしの木の下へ這い出ていったという話があった。飢えて死ぬのを待つより、食べ物のヤシの実を拾いに大砲の弾の中に出ていったという話を思い出した。それにしてもコンな硬いものをどうして食べたものやらと不思議に思う。とにかく硬いのだ。こんなのが頭に落ちてきたら、どうにかなってしまう。だから、南国では風のある日はヤシの木下に立ってはいけないといわれているという。
9 / 22 キーウェストー〜ワシントン〜ニューヨーク
< 釣りに挑戦 >
今朝はもうこの南国情緒豊かなキーウェストを離れなければならないと思うと興奮して寝られなかった。
だから、眠くないのだったら寝ないでいよう、飛行機の中で眠れば良いんだからと自分に言い聞かせた。
テレビは一晩中ハリケーン( 名前は 「 ヒューゴ 」のことを報じていた。飛行機がオーバーランして飛行場からとびだして死者や怪我人も多数出ているという。そのほか三局ぐらいでずっと映画を流していた。「 007 」や「 猿の惑星 」などの古い映画だった。他に音楽番組をずっと放送する番組もあった。チャンネルが多いのである。しかし、アダルト映画はなかった。(2001年6月14日に思うに日本はこの頃のアメリカよりう約10年以上遅れていることになる。チャンネルの数)
夜になっても気温は下がらず28度くらいなのである。部屋の中はクーラーがきいている。とうとうこの3晩で成田で買ったナポレオンを全部一人で飲みあげてしまった。
その夜、ホテル裏の砂浜に出かけた。真夜中でも車はひっきりなしに走っている。自転車で夜中サイクリングしている若者もよく通る。日中暑いから、夜活動しているむきもあるようだ。海水着ひとつで砂浜の寝椅子に横になった。寒くはない。しかし、眠っているところを不意に襲われたら怖いなどと考えたり、一文無しの裸の私を襲う奴もいないだろうと思ってみたりしていた。星がきれいであった。
朝方4時頃になり、プールに泳ぎに出た。プールの半分は深い作りになっている。ここで潜水の練習をするためだった。深さはフィートで表されていた。そのプールの脇にはSPA( 温泉 )があった。疲れをとったり、冬のやや寒い日はここで体を温めるのだと思う。静かに泳いではのんびりSPAに入って過ごした。
午前6時半頃になってようやく空が白んできた。釣りずきの私はこのアメリカの地で釣れないまでも愛用の竿をおろしてみたいとわざわざ日本から持ってきていた。リール竿にルアーを用意してきていた。それを思いっきりとばした。すぐにかかった。・ ・ ・ ・ ・ 藻だ。投げれば気が済むんです。
釣れないことに慣れてくると、太公望はみなこの糸をたらせば気が済む境地に達する。
夜が明け、海の様子もはっきりしてきた。見ると底の底まで澄んでいる。藻がいっぱいで水の中に入ると足元が藻で見えなくなって気持ちが悪い。しかし、せっかく来たのだからと昔わんぱく少年のオジン4人ほどで泳いだ。よく見ると、藻の中にたくさんの魚もいた。しかし、私のルアーを見て逃げ出す魚ばかりだった。
今日はこれからワシントン経由でニューヨークまで飛んで、夜はメッツの試合を観戦する事になっている。
長い一日になりそうである。昨晩はほとんど寝ないで、ごそごそ夜行性動物のように動き回ってきた。しかし、やりたいことをやり終えた満足感が疲労を消し去っている。
飛行機の窓からの景色は綿あめのような南国の雲に青い空。絵葉書以上に美しい景色である。
いかったなぁキーウェスト。また来たい キーウェスト。
1989.11.25 (土) 乞う、ご期待! 東部アメリカカナダの旅
2001年 乞うご期待 今なら話せるウラ話。 暇になったら書きます。
一人一人を異なる人間に育てる
味方村立味方中学校 小野島 徹
ここアメリカは、地球文化の先端を行き、ニューヨークは “世界の心臓” である。このことを実感した。
確かに治安や貧富の差などの問題を持つが、世界はここにある。そんな気がした。人種のるつぼであるこのニューヨークが、それなりの秩序を保っている事さえ私には驚異であり、うれしいことであった。
あのシロ・クロの大きな体格に似て、やることが大きいと感じたアメリカ旅行であった。
数多くのカルチュアーショックを小さなキイロの体いっぱいに受け止めてきた。分けても教育面では個人の尊厳を重んじ、自由を尊ぶ、アメリカらしい教育の姿に触れた思いがする。特に感動深かったのは、小学校二・三年生程度の英語の授業であった。この学年程度の授業が私の拙い語学力にはちょうど良かったわけであるが、ここでは次のような詩を朗読させていた。正確には訳せないままでも、自分は自分であるといい、自分の存在を大切に、尊重していこうという意味らしい。この精神を小学校の低学年のころからうえつけているのだなあと私なりに理解した。
にほんでは、とかく 「 期待する人間像 」 が決まっていて、その同一の姿を目指して指導がなされている。求める姿は全校同じ子供像なのである。したがって、同じ制服を着せ、同じように育てようとしている。しかし、この国ではどうもそうではない。教師は、廊下でのすれ違いざまにもよく子供の制服を誉めている。「 ああら、いい色ね。 」 とこんな調子である。そういう教師もまた、足首にまとわりつくような長いスカートだったり、思い思うの服装なのである ( モンロー小学校 )。そんな中で、子ども達は、自分だけの服装を自慢し、自分の生き方や個性を精一杯主張しているように思えた。全員を同じくする教育の一面も否定できないが、「 個性の伸長 」 を思うとき、一人一人を異なる人間に江おだてていこうという教育観が確立していなければならないと思う。評価の尺度も、人間の数だけ必要になるかもしれない。しかし、そうして一人一人の子供を見ていくことが、自由主義国にふさわしい教育であり、“ 個人の尊重 ”
を尊重する道だと感じさせられた。 ( 9月23日 夜 )
I’m glad I’m glad
No one looks The way I do
I have noticed That its true
No one walks The way I walk
No one talks The way I talk
No one plays The way I play
No one says The things I say
I am special I am me
There’s no one
I’d rather be than me !