河合継之助(16歳で元服し秋義 つぎのすけが正式な通称、つぐのすけも通称)

 複雑極まりない人間を論じることは、相手が誰にしろ難しく、また不遜なことだと思う。とても私ごとき者にはできない。ましては、世間の評価も分かれる河合継之助に至っては、私論を述べる勇気はない。しかし、河合継之助という人物について私なりの理解は得たい。そこで私としては、河合継之助の書いた言葉、漏らした言葉をまとめたり、河合継之助について書かれた作品の中から興味をあることばを拾い出し、私なりの理解を得たいと考えて、この頁を作ってみた。おいおい増やしていきながら考えを深めたいと願っている。

    立身は孝の終わりと申し候  安政6年1895
   
    1、無くてはならぬひととなあるか、有ってはならぬ人となれ。沈香もたけ。屁もこけ。
    1、牛羊となって、人の血肉に化せずんば、さい狼となって、人類の血肉を食らい尽くせ。
    1、身を棺かくの中に投じ、地下千尺の底に埋了したる以後の心にあらずんば、ともに天下の経綸を語るべからず。道義、道徳もそれからだ。

    春雨のわけてそれとは降らねども 受くる草木の花はいろいろ

   

    私が読んだ、「河合継之助」について書かれた本を紹介します。
 「愛憎 河合継之助」 稲川明雄 これが(^-^)v ヨカッタ
    題目の通り、河合継之助を愛憎の両方の思いで見つめ、継之助を主人公に小説仕立て風に書いている。
    河合継之助は比類のない才能をもった人とは思うが、歴史上、人間として特上の評価を与えることには、疑問をもっていた自分に、
    随所で納得させる箇所があり、うなずきながら読ませていただいた。
    また、、書き出しの部分から目立った「長岡弁」が、忘れていた子どもの頃の「方言、なまりが」思い出され、その部分を読むのが楽しみの一つにもなった。
    例えば、
    
 「玄関からの雪は、コシキでもって、広くほげておいてくりゃえ。」
    「まっと降れ。まっと降れ。」
    「なにせ、河合さまの こったすけ。しなさることが、検討もつかねえてがんね。」
    「そいが。俺もきいたども、・・・調べてなさるがあと。」
    「おっこ、こらまた、なんかあったがかいね。おまんたちおそろいで、珍しいねかて。」 こんなふうである。


 「峠」 司馬遼太郎著 

   
○自分以外に、人の世を救えぬという孤独さと悲壮感が、この陽明主義にとりつかれた者の特徴であった。自分のいのちを使える方法と場所を、自分が発見しなければ。

   ○長岡藩の士訓十七条に「頭をはってもはあられても恥辱の事」ということばがある。 

   ○日本人がずいぶん昔から身につけている思考癖は「真実はつねに二つ以上ある」というものであった。たとえば、「幕府という存在も正しくかつ価値があるが、朝廷という存在も正しくかつ価値がある。神も尊いが仏も尊い。孔子孟子も劣らず尊い。」花は紅、柳はみどりであり、すべてその姿はまちまちだがその存在なりに価値がある。

   ○(寛猛自在だな)と、これらの経過を見ていた従者彦助は舌をまいた。まず肝をうばってから道理を説き、ふたたび相手が頭をもたげてくると別の手で今一度肝をうばい、最後に酒宴でうちとけさせてしまう。

   ○「芝居といえばそうだが、政治というのは、演る者も観る者も命がけの芝居だぜ」といった。(妾禁止令)

   ○偉大な政治家をその頭にもたぬ軍事的決起は、草賊の集まりにすぎぬ。(立見鑑三郎と)

   ○天子はあくまでもこの国の実権的王者でなく、日本最高の神聖血液の象徴であり、・・それゆえ尊崇され、それがゆえに戦国乱世のときでも天子を倒す者がなかった。

   ○「足下の物の考え方、施政、人の使い方に大きな誤りがある。それを申し述べて、この御厚情に対する恩礼としたい。(虎三郎)

   ○余念をもってはいかに器用者でも仕損じる。「目と心を一つにしろ。」

   ○錦の御旗は大久保が京の愛人のためにひそかに調製した帯地で縫製したもの 安田正秀の蟄居  刈羽山中村) 

   ○尾崎秀樹北越第一の砲兵団をもつ長岡の藩を過信し、局外中立をとり得ると考えたことも、つまずきの一つにあげられる。しかし、彼は最後の場に立って、サムライの美意識から抜け出すことができなかった。

   ○自由人である河合継之助はいろいろなことを思えても、長岡藩士としての彼は、藩士として振舞わねばならない。そういう立場絶対論といったふうの自己規律、または、制約が河合の場合には非常に痛烈だっta.

   ○西軍は「長岡征討」という一枚看板でやってきた。
   ○フランス皇帝への手紙は、オランダ語では手に負えず、漢文で書いた。漢文なら日本語よりも多少の世界性をもっているだろうと考えた。
   ○外交は武力の後ろ盾があってこそのものだという継之助の理論が進行しようとしている。
   ○人間は、やはり自分が生きている環境からは飛び上がれぬものだな。自分が薩長に生まれておれば、徳川討滅の急先鋒に(大野右仲の言葉)
   ○談判の日、会津の襲撃隊は奮戦のあと、長岡藩の藩旗「五段梯子」を戦場にすてちらした。
   ○多士済々の松下村塾 前原一誠(明治にまで命をつないだ人も多い)

河合継之助  稲川明雄著 

   300頁の内、後半100頁ほどの「それぞれの戊辰戦争」が印象に深く残りました。
   無名に終わった多くの戦士の身に添った記述に心をうたれました。主な題名は
    ・暗殺計画の真相(酒井貞蔵の斬姦状)
    ・小林虎三郎(ライバルと友情)
    ・衝鉾隊
    ・水戸脱走兵
    ・女たちの北越戦争
    ・人間山本五十六(謙信・良寛・継之助の土壌)など


 安藤英男著 河合継之助
  
史料が多い。付録として、23歳の時の中国、九州への遊学の時の旅日記を全文掲載

 河合継之助写真集 安藤英男  横村克宏写真                                                                                            さまざまな方の書が掲載されており、筆跡から、そのひととなりなどを楽しく想像できた。(鷲尾雨工が慈眼寺を訪れた時の芳名録への書)

 河合継之助のすべて  安藤英男編
    安藤氏ご自身以外の方の作品を紹介します
      序 随想河合継之助     中野好夫
  
    河合継之助と備中松山   山田琢 
       長岡藩の軍制とと装備   所荘吉
      長州軍と北越の戦い    古川薫
      北越戦争と河合継之助   村上一郎
      八十里越えを行く      宮本尊生

父上衛門秋木明治4年4月14日没 仙寿院峰誉小雲居士 栄凉寺の墓碑には刻まれていない