四国地方 ゴールデンウイーク車の旅
5月2日 (’02)
夜9:00出発 (北陸道)三条燕IC〜長岡JC〜上越JC〜富山〜米原〜京都東〜仮眠
5月3日 見学
(名神高速道)〜尼崎JC〜(阪神高速道)〜ガソリン追加〜名谷JC〜(神戸淡路鳴門自動車道) 7:30明石海峡・道の駅<朝食>早朝にもかかわらず駐車場は満車で規制中〜鳴門公園 海峡・渦潮の見学〜(高松自動車道)高松<昼食>・栗林公園見学〜 宿 ラポールタカマツ 087−862−2431
剣岳
一語一座=車とロープウェイで登った山という印象である。実際に歩いたのは、わずか40分である。頂上は平地になっていて、天気がよかったら気持ちがいいだろうなあと思った。
5月4日(土) 登山 剣山 <登り40分 下り35分>
朝6:00〜屋島見学写真〜193号〜土柱〜438号〜貞光〜一宇峡〜見の越し・リフト・登山開始10:00〜登り
40分で剣山山頂 霧が降っていて視界は悪く、高山の植物たちも早春のためかほとんど花をつけていなかった。頂上は平地になっていて、天気がよかったら気持ちがいいだろうなあと思った。頂上11時頃着〜12時下山〜奥祖谷川(二重かずら橋見学)〜東祖谷川〜西祖谷川(平家屋敷見学)〜(大歩危見学)32号線〜大豊IC(高知自動車道)〜高知IC〜5:00桂浜・見学 宿 ビジネス ホテルときわ п@088−884−0111
文学散歩 : 宮尾登美子の作品「天涯の花」を読んでから、出かけた。この本は、純粋無垢の少女が、剣山の山懐の由緒ありそうな神主に引きとられて、生活したお話であった。しかし、悪く言うなら、高尚な精神性が織り成す美しいお話かと期待していたが、ただ、子どものいない神主の老人が自分の老後の世話を見てもらおうと、素直な子を施設から引き取って育て、その子が年頃となり、剣山の山小屋の青年と登山に来て遭難した妻帯者の男との二股を掛けた、なんとの俗っぽいお話であった。 それでも、お話に出てくる神社までの、道のりの深さはなるほどと思わせられた。しかし、これも作者が現地に行っていないとのことで、なんかだまされた感じがした。作品の中にでてくる「キレンゲショウマ」は最初から見られないものと分かっていたが、その草の姿だけでもと思ったが分からないままで下山となった。インターネットで調べると、黄色い花であり、それが群生していたら、確かに明るくきれいだろうなあと想像できる。
石鎚山
一語一座=鎖場を登っていたら、野球のボール球よりちょと大きいやつが落ちて来てひやっとさせられた。崖に架けられた吊橋のようなところを降りてきたら、山側によけていた女性が恐怖で谷側にいる自分にすがりつくようにされ、ひやっとした。他人がいたためにかえって危険にあった経験をした山である。
5月5日 石鎚山 <登り2時間50分 下り2時間30分>
朝6時 194号線 本川村 ガソリン追加〜道が極端に狭く、昨日の祖谷川峡谷の3時間ドライブで充分に峡谷ドライブを堪能していたことと、鎖場の少ない成就神社方面なら妻も一緒に登山するというので、面河・石鎚スカイライン・土小屋からの登山を急きょとりやめ、西条市へ向う。〜ロープウエイ・成就駅着 登山開始10:10〜1:20頂上着
なんといってもこの山は、切り立った鎖場・写真の怖さが思い出に残る。鎖場1は通り過ごしてしまい、せっかく来たのだから一箇所くらいはと鎖場の2に挑戦した。霧もかかっていて上が良く見えなかたのが災いして、そこまでと思った所はまだ3分の1ほどの通過点に過ぎなかった。すぐ上では、7,8歳の男がずっと泣き叫んでいる。下から祖父が押し,上から父親らしいのが引っ張ろうとしているが、必死の呈である。私が自分の身一つをもてあましているんだから,あの人たちは大変だろうなあと手伝ってやろうと思いながらもなかなか追い付けない。腕の筋肉が伸び切っちゃっている。鎖は濡れて泥がついてすべる、その上、こともあろうに上からの落石もあった。,野球のボール球よりちょと大きいやつが落ちて来てひやっとさせられた。足腰には自信はあるが登山は素人というような、そんな若いもんが落としたんだろうか。
下山開始〜4:00頃下山終了〜いよ小松IC(松山自動車道)〜松山IC〜道後温泉 宿 にぎたつ会館 089−941−−3939
5月6日 見学
朝 道後温泉 松山城見学〜松山IC〜(松山自動車道)〜川之江JC〜(高松道)〜さむき豊中IC〜金毘羅神社2:00〜3:00奥の院まで〜善通寺IC〜(瀬戸自動車道)与島PA〜倉島JC岡山(山陽自動車道)三木神戸JC〜吹田〜(名神高速道) 宿 京都ビジネスホテル
5月7日
〜米原JC〜関が原〜一宮〜牧之原IC〜(中央自動車道)恵那〜駒ヶ根PA〜岡谷(長野自動車道)〜長野(上信越自動車道)〜上越〜三条・燕〜白根着
四国の旅の感想は、今までと違い,一つ一つの山を登ったり見学したりを、これが見納めだと思って見ている自分を強く感じた。腕力の衰えを感じたこともあるが,この後否応なしに齢を重ねるわけで,再度ここにくることはまずなかろうという思いをもって景色を見ていた。だからといって、これまで以上によく観察できたわけでもないが・・・。強く印象に残ったのは次の3点である。
一つ目は、傾斜地に建てられた住まい
祖谷川(イヤガワ)に沿った集落のありようには目を見張った。谷が狭まっていて、平面がないので、傾斜地を利用してそこに住居を建て、稲田は無理なの蜜柑などのかんきつ類を栽培して生活をたてているようであった。上の家の庭で石を蹴ると下の家に落ちてあたってしまう、そんな感じであった。当然、家同士の付き合いも大変だろうと思った。が、畑の果実の収穫などに使うあのレール一本の一人乗りモノレールが他の家の前をも通っているのをみると、それを利用している行き来しているように思えた。雪が降らないからこういう利用ができるのだろう。
そして、
谷が狭いからかずら橋のような釣り橋もかけられやすいのだと思った。
山の吊り橋といえば、わが新潟方面にも、こんな橋があります。わずか、二本のワイアーを上下に張って、その二本を所どころで離れないように結んで置くだけの簡単な作りのものである。上が二本、足下が一本の吊り橋は知っていたが、上下わずか一本ずつワイヤーの橋は初めてであった。私は、渓流釣りでこれを初めて見たときは、橋が壊れた残骸がそのままになっているのだと早合点してしまった。ところが、山の方から山菜採りを終えたおばさんたちが戻ってきて、まさかまさかと思っているうちにそのおばさんたちが、その吊り橋を渡ってくるのであった。
この度の四国への旅での印象に残った二つ目は、野中兼山なる人物とその子供たちのたどった一生。そして、歴史上の人物をその歴史的次元、本人の立場にたって考えることのの難しさである。野中兼山は土佐藩の重鎮として、農業用水や港の建設などに力を尽した。しかし、藩財政の逼迫の責任と労役の過酷さをうらまれて失脚。その後はその罪は、その妻子にまで及び、悲惨な一生を遂げたという事実である。野中氏の評価は、藩政下では低く、明治の殖産興業の時代には高く,戦後の民主主義の時代にはその過酷な労働の強制を批判されて評価は低くなり、昨今はまた見直されつつあるという。封建社会に生きた野中氏の行いを現代の民主主義社会を見る目で単純に批判するのはあたらないということである。かといって、歴史上で名も無く死んでいった幾多の庶民の苦しみの声が聞こえてくるようでまた無視できない思いにもとらわれる。善悪を問うのは容易ではない。
最後の一つは,二期作についても勉強になった。高知県の二期作は有名であるが,その二期作が行われる前は、俗にひこばえといわれる、切り株からの出てきたのをそのまま育てて再び刈り取っっていたということである。私も、子供のころ、晩秋の時期、よくあの切り株からでてくる稲をみながらこれをそのまま育ててしまうことはできないものかと思っていたので,やはりすでにやられていたのか、我が意を得たりの感を持った。その方法は、江戸時代から行われていたが、屑ももみのようなものが多く,あまり生活の助けにはならなかったようである。肥料もよくなり、二期作のほうがより確かな収穫となったとうことである。しかしながら、それもまた現在は米あまりの世となり、あまり行われないということである。時代ともに・・・移り変る地方誌を学ぶことが出来た。