木曽駒ケ岳(2956m)                           トップへ戻る
   
一語一座=
ロープウエイを利用すると、一足飛びで、高山植物の咲き乱れる千畳敷カールに着く。


8月7日 16年(04’) 登山  木曽駒ケ岳   単独行   前日の空木岳から続けて

     <ロープウェイ利用 登り2:00、下り1:30>

○駒ヶ根駅前出発6:30  デイリーストアーで朝食と昼食を購入・・・・7:10ロープウェイ黒川平駐車場着・バス停で出発準備

○黒川平駐車場バス出発7:30(バス)・・北御所登山口経由・・7:50しらび平駅(1662m)

○しらび平8:00(ロープウエイ)〜〜〜8:10千畳敷駅着(2612m)・・・・9:00浄土平

○浄土平9:00・・・・・9:25前岳・・・9:50浄土平に戻る

○浄土平9:50・・・・・中岳・・・・10:22木曽駒ヶ岳頂上

○木曽駒が岳10:22・・・・・・・11:55千畳敷駅・並ぶ12:25・・・・・・12:32しらび平駅

○しらび平駅12:55(ロープウェイ)・・・13:15黒川平

○黒川平13:45(バス)・・・・早太郎郷・こまくさの湯・昼寝・・・・・

○こまくさの湯16:00・・・・恵那山の登山口「川温泉」に向かうが、豪雨に恐れをなして、ユーターンして、八ヶ岳に向かう


  アドバイス
 1 観光の時季は、ロープウエイは行きも込み合うが、帰りはもっと込み合い、なんと3時間待ちになると、千畳敷駅のスピカーがカールいっぱいに大音響で告げていた。午前中に下山してしまうよう計画を立てることが賢明かと思う。

 2 バスは、駒ヶ根駅からも出ているが、車で来る人が多く、菅の台停留所からの方がひんぱんである。15分以内間隔内で走行している。最も奥の黒川平からは、往復のバスとロープウエイ代で,3800円プラス駐車料金400円の計4200円であった。

 3 温泉郷の「コマクサの湯」は、登山後のお客でごったがえしていたが、2階の休憩室はすいていた。マッサージ師さんが3人もおられ、結構繁盛しているふうだった。ただ、お風呂にはいってすぐに観察するのは、お湯がどの程度あふれ、捨てられているかであるが、ここは、その点、どうかなあと思った。塩素をたくさん含ませた循環式の沸かし湯のように思えたのである。営業妨害かな。

  4 新田次郎の「聖職の碑(いしぶみ)」を読んでから登るとよい。私はこの本を涙をぼろぼろ流しながら読んだ。やめろ。登山をやめて引き返せ。そう心の中で叫びながら読みつづけた。(関連内容はこのページの一番下に)
  
  5 落石がありました。落石があったら、0.1秒でも早くに大声で知らせよう。1の写真の左の鞍部を下っている際にだれかが、石を落としてしまった。「ああ、あぶない」という声が聞こえたので、その方を見ると砲丸投げの玉くらいの大きさの石が落ちていくところだった。落石を見るのは、私は、これで3回目。0.1秒でも早くと「ラクセキ」と大声で叫んだ。書物では,「ラーク」とも言うように書かれているが、そんな専門的な言い方では、ここの人たちには通じない。登山者というより観光客の方がずっと多い登山道である。1の写真を大きくしてよーく見てください。観光客が列をなして登っています。

  6 山道の、谷側はできるだけ歩かないこと。自分が谷に落ちてしまう心配もあるが、思わず登山靴が石に触れて、落石をつくってしまうからだ。勢いのついたその石が、ジグザグの登山道の下の道を登っている人を直撃しかねないから気をつけよう。

  
 花写真は大にしてご覧ください。

1 千畳敷カールから(大) 2 浄土平 3 前岳から空木岳方面を 4 前岳から千畳敷カールを(大) 5 左=中岳、右=駒ケ岳
6 コマクサ、冬は枯れてるのかな? 7 チシマギキョウ 8 クロトウヒレン 9 アキノキリンソウ 10 タカネトリカブト
11 エゾシオガマ 12 ミヤマリンドウ 13 モミジカラマツ 14

 

聖職の碑」について(Woodnote氏の説明にリンクさせてあります。先にお読みください)
  ○ 遭難者の方々の中箕輪という集落に行って、そこから木曽駒が岳がどのように見えるのか、写真に撮りたかったが、あいにくの大雨であきらめた。駒ヶ根市から駒ケ岳は当然見えるものと思っていたが、どうやら、前岳,、宝剣岳は見えても、肝心の駒ガ岳は見えないのではと思われる。
 
 ○少年たち一行は、朝5時30分出発して、平坦の道を4里半(16km)も歩いて登山口に10時30分着。12時から、登山。北御所、清水平、ウドンヤ峠、夫婦岩、濃が池、駒飼の池、を通っている。約7時間ほどのコースではないだろうか。合わせて12時間の歩きとなります。私は、前日、空木岳を10時間かけて登り下りをしたが、昔の子供たちは、徒歩が日常のことであったとはいえ、きつい山行だったことが想像される。

 ○ あの話の中で、なるほどさもありなんと思ったのは、当時の青年団のありようである。ここで、子供たちをほっぽって逃げ出したら、村人にあざけられ一生嫁さんなどもらえないぞというようなくだりである。中等学校を終えた後は、学ぶ場のない青年たちは今以上に地域の学校との結びつきを深めていたとともに、この青年団活動を通して社会性を養っていったものと想像される。
 
○ 他県のことで、詳しくは分からないが、碑に書かれた「上伊那郡教育会」というのは、新潟県の学閥にあたるものであろうか。新潟県では、この学閥が教育管理職の採用や昇進に大きな力を発揮している。管理職の採用は、1日やそこらの筆記テストや面接で人物なんぞの分かりようはなく、会社のように日々の仕事振りの評価こそ大切であり、そのような能力や人間性の正当な評価を担っていたのが、長野県の教育会であり新潟県の学閥ということになるのだろうか。

○このことはまた別な機会に譲るとして、この「教育会」が碑(いしぶみ)を建立している。そして、「記念碑」と銘うっている。新田次郎のこの本から知りうるかぎりでは、この遭難に至った責任はひとえに校長「赤羽先生」にあると思われる。落ち度はいくつも指摘される。が、碑は「記念碑」である、仲間内であった校長の名誉を守ろうという教育会の意思が強く感じられていやらしい感じであった。再度また、ゆっくり読んだり、長野の友達にたずねてみたりしたいと考えている。

○だが、わが親友、「信濃毎日」の二本松二美幸なる男、長野と長野の教育を熱っぽく語った男はすでに他界してしまった。彼の、「信濃の国は十州に 境連なる国にして・・・」と歌う声がなつかしい。